「戦後、旧軍人・軍属は補償されたが、民間人は『その他』のままだった」忘れてはいけない早乙女勝元さん「大阪空襲訴訟」記念の集いでの講演(下)

大阪大空襲の被害者らが国に謝罪と補償を求めた「大阪空襲訴訟」。集団提訴から2周年を迎える2010年12月8日に記念の集いが開かれ、当時「東京大空襲・戦災資料センター」館長で作家の早乙女勝元さん(享年90)が講演。「東京大空襲で亡くなった10万人の命は『その他』だった」と訴えた。後半の講演要旨をお届けする。(新聞うずみ火 矢野宏)

「国会議員と全国空襲被害者との講談会」であいさつする早乙女勝元さん=2010年3月、東京都内

だが、憲法が公布されて3年後、日本は逆コースに入る。

1950年から朝鮮戦争によって警察予備隊が創設され、2年後に保安隊、54年には自衛隊となった。閉鎖されていた町工場が一斉に動き出して日本は闇市の時代を脱した。

町工場で働く一青年であった私は悩み続けた。あのB29爆撃機が今度は日本から朝鮮半島へ出撃していく。爆撃の下がどうなっているのか容易に想像がついた。

何かできないかと考え、あの記憶を記録にしてみようと、自分史を書いたのが作家としての原点である。

戦争が終わって6年後の51年、日本は米サンフランシスコで単独講和を結び、日米安全保障条約にも調印した。52年に旧軍人・軍属の援護法である「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が、翌年には国家補償による軍人恩給法と次々に成立していくが、民間人は「その他」のままだった。

大阪大空襲を伝える新聞記事

私は70年に「東京空襲を記録する会」を結成。平和記念館建設の機運が盛り上がっていくが、99年から右翼的な傾向がまん延していく。

それでも記念館を造らねばと訴えると、ある女性から土地を提供され、募金も寄せられ、東京都江東区に「東京大空襲・戦災資料センター」が開設できた。

「知っているなら伝えよう、知らないなら学ぼう」と訴えていく中、空襲犠牲者の名前を残せないかという運動が起きた。その延長線上に「東京大空襲訴訟」がある。2009年12月の一審判決は敗訴だったが、判決文の中に「立法で解決すべき」とあった。東京だけの問題ではないと、10年8月に「全国空襲被害者連絡協議会」が発足した。

会の目的は三つ。「空襲被害者援護法」(仮称)の制定。空襲被害者の追悼と人間回復。戦争の惨禍を繰り返さないための連帯運動だ。

「戦争をこの世からなくすために、裁判を通して国の責任を明らかにすることは、生かされた私の最後の務めだと思っています」との「大阪空種訴訟」原告代表の安野輝子さんの言葉が私の心に残っている。

声を声に、心に結んでいくことによって、さらなる大きな輪につながることを祈念してやみません。

 

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