その日の夕方に助け出された吉富さんは駅近くの大阪市立聖賢国民学校(現聖賢小学校)の講堂に収容された。
翌15日終戦。吉富さんは、探しに来てくれた次兄から母と長兄の死を知らされる。
「せめて一日早く戦争が終わっていればと思うと悔しくてね」
戦後、孤児として親戚を転々とした吉富さんは「親を亡くした子供はみじめでした。ただただ耐えるだけでした」と語り、手にしたハンカチで目頭を押さえた。
2017年の夏を最後に吉冨さんとの再会も果たせていない。「身寄りのない吉冨さんは施設に入られた」との噂を耳にしたのは新型コロナウイルスの感染が流行る前の年だった。
慰霊碑に手を合わせ、私はツアー一行の後を追った。