京都ミニ―ツアー「まいまい京都」が主催する「大阪城に残る軍事遺産」ツアーに参加した20人はJR京橋駅南口改札前に集合。「京橋駅爆撃被災者慰霊碑」前で、武庫川女子大名誉教授の三宅宏司さん(77)から説明を受けた。私は毎年8月14日の慰霊祭に訪れており、これまで体験者に取材した話を思い浮かべていた。(新聞うずみ火 矢野宏)
国鉄京橋駅(現JR京橋駅)は、大阪砲兵工廠の北側に隣接していた。当時、空襲警報が発令されると、列車は最寄りの駅で停車することになっていた。
終戦前日の1945(昭和20)年8月14日正午過ぎ、国鉄城東線(現大阪環状線)の上下2本の電車は京橋駅に緊急停車、あわせて1000人近い乗客が駅に設置された防空壕へ駆け込もうとした。だが、すでに満杯状態で、あふれた乗客らが城東線の下側を走る片町線のホームに避難したところ、1発の1㌧爆弾が直撃した。
2017年夏、当時87歳だった男性から京橋駅の惨状を聞いた。
大阪市城東区の安本恒次良さんは当時15歳。疎開先の兵庫県福知山市から実家に帰宅する最中だった。1本前の電車で京橋駅に下車したため、駅の防空壕に避難できた。
「防空壕の中は20人ぐらいがぎゅうぎゅうに身を寄せ合っていました。近くに爆弾が落ちるたびに、『ドドーン』という爆音がひっきりなしに続き、大きな地震のように激しく揺れ、何度ももうダメだと思いました」