見送られた空襲被害者救済法 「義足代にもならないけれど」

●生後襲った焼夷弾

藤原さんが大阪市阿倍野区の自宅で生まれたのは45年3月13日午後9時過ぎ。日付が14日に代わる直前、空襲警報が鳴り響いた。母と藤原さんは布団ごと、庭の防空壕に運び込まれた。そこに1発の焼夷弾が直撃。布団に火がつき、産着にも燃え移った。
「赤ちゃんがいるの。助けて」。母親は懸命に助けを求めた。偶然、家の前を通りがかった男性が防空壕に飛び込み、2人を助け出してくれた。
消火活動から戻った父親が藤原さんを病院に連れて行ったが、薬もない。傷口に赤チンを塗ると、焼け焦げた左足の指がポロポロと落ちたという。藤原さんの左足はケロイド状態となり、指のない足先は変形。膝の関節は内側に向かって曲がったままだった。


成長とともに左右の足の長さに違いが出てきたため、左足に補装具をつけ、それを隠すために太目のズボンをはいて通学した。運動会や体育の時間はいつも見学だった。

「私もスカートがはいてみたい」。藤原さんは中学2年の時、左足の膝上10㌢のところで切断し、「義足をはいて」の生活が始まった。膝が曲がらないため、「ひょこたん」とからかわれた。高校卒業後、「手に職をつけないと食べていけないから」という母親の勧めで洋裁学校へ通った。24歳で結婚。最初の子どもを授かったとき、小さな足をなでながら思った。「私の足も、こんなだったのかな」

70年代から民間の空襲被害者への補償実現を訴えたが、73年から88年にかけて14回提出された救済法案はすべて廃案になっている。
2008年には大阪空襲訴訟の原告として法廷で救済を訴えたが、14年に敗訴が確定した。判決が立法による解決を促した。空襲議連の法案に不満は残るものの、それでも成立を願っていた藤原さんの落胆は大きい。「国は私らが死ぬのを待っているのやろか」

 

●戦災孤児は対象外

 

空襲議連がまとめた法案はあくまでも空襲で障害を負った人が対象で、戦災孤児は除外されている。
大阪府泉南郡田尻町で美容院を経営する吉田栄子(はえこ)さん(86)は1945年3月13日深夜からの大空襲で、両親と姉2人、6歳だった弟、同居してい

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