見送られた空襲被害者救済法 「義足代にもならないけれど」

た父の弟家族4人の計9人を亡くした。当時10歳で国民学校4年生だった吉田さんは、泉南郡岬町の父方の親せき宅に縁故疎開していて難を逃れた。
父親は大阪市浪速区で、軍艦などを磨くための布を何枚もミシンで縫い付ける工場を営んでいた。

前列真ん中が吉田さん。その右が父、左が母

 

「大阪で大きな空襲があったらしい」という噂が岬町にも広がり、空襲から2日後、吉田さんは叔父に伴われて大阪へ向かう。半年ぶりに目にした街は一面焼け野原で、我が家は工場ともども跡形もなく焼け落ちていた。

吉田さんは、泉南郡下荘村(現・阪南市)の母の姉宅に預けられたが、3カ月後、唯一生き残った兄が結婚した大阪市西成区の家に引き取られた。「お弁当を開けるのが恥ずかしかった。親がいる子はおいしそうなお弁当を食べており、親が生きていればと悔しかったです」

中学1年の時、兄が離婚したため、吉田さんは父の妹のいる阿倍野区へ引っ越したが、ほどなく叔母が病死。泉南郡信達町(現・泉南市)の母親の弟宅へ引き取られた。4人目の子どもが生まれ、吉田さんは家事に加え、子守も手伝う。当時は水道もなく、生まれたばかりの従妹を背負い、家から離れた井戸に水をくむため、30回以上も往復した。洗濯も吉田さんの仕事で、靴下が破けたり、ボタンが取れたりした時の繕いもすべて一人でやった。「食べさせてもらっている。そんな負い目もあって、叔母の顔色を見て先に動きました」

高校進学をあきらめ、叔母の勧めで美容学校に通った。21歳で結婚、叔母の美容院を手伝いつつ、数年後に開業する。

「空襲体験は封印してきた」という吉田さんが、大阪空襲訴訟の原告に加わったのは「二度と私のような悲劇を繰り返してほしくないから」。
11年に発足した空襲議連は法案をまとめていく過程で、戦災孤児や遺族らも対象としたが、65万人にのぼるため、戦災孤児は対象外とされた。それでも吉田さんは「国には、空襲被害者を救済してこなかったことを、きちんと謝罪してもらいたいと思います。その一つが、救済法案を成立させることだと思っています」と訴える。

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