「元徴用工」原告女性の訴え 戦後も偏見の苦しみ

当時の日本政府は38年に国家総動員法を制定し、41年に太平洋戦争に突入。敗色が濃厚になった44年には国民徴用令を朝鮮半島にも適用した。

その年の5月、姉は女子勤労挺身隊員として日本へ渡る。オオガキという日本人教師から「日本へ行ったら働いてお金を稼ぐことができる」「勉強もできる」「いつでも帰ることもできる」などと勧誘され、名古屋の三菱重工航空機製作所に動員された。

その年の暮れ、金さんもオオガキ先生から「日本へ行けばお姉さんに会える。一緒に住むこともできる」「学校にも一緒に行くこともできる」と、女子勤労挺身隊に応募するよう強く勧められた。

出征した男性労働者に代わり、国民学校の5、6年生や卒業後1、2年の少女を日本の軍需工場で働かせた女子勤労挺身隊。教師が「日本に行けば金も稼げて女学校にも行ける」などの甘言で志願を進めるなど、学校が動員に深くかかわったことも証明されている。

金さんはやむなく日本行きを決意したが迷っていた。祖父母にもなかなか言い出せなかったという。

「打ち明けたのは日本へ行くその日。案の定、反対されました。集合時間を過ぎたので、警官が迎えにきました。祖母がその足にすがり、『孫を連れて行かないで』と泣いて頼みました。ところが『お前が行かないなら、おばあさんを警察に連行する』と……」

45年3月、たどり着いたのは名古屋でなく、雪の富山だった。「お姉さんに会えるはずだったのに……。だまされたと知り、毎晩毎晩泣きました」

不二越は戦時中、航空機の部品を作る軍需工場だった。社史には「1944年から45年にかけて、当時日本の植民地だった朝鮮から来た、尋常小学校を卒業前後の12歳から15歳の少女たち約1090人が、富山市の軍需工場『不二越鋼材株式会社』で『朝鮮女子勤労挺身隊』として働いていました」と記されている。

宿舎の周囲には鉄条網が張られ、日本人の舎監たちが監視していた。起床は午前5時。工場まで隊列を組んで軍歌を歌いながら行進させられた。

工場ではベアリングの外側のリングを削る仕事が割り当てられ、大きな旋盤の前で働いた。身長が低い金さんはリンゴ箱を二つ重ね、その上に立って機械を操作した。7時から夕方5時まで、ほとんど休み時間もなく立ちっぱなし。旋盤を回すベルトが外れて飛び、体に当たったことも1度や2度ではない。ノルマをこなすまで帰らせてもらえず、トイレに行って少しでも遅いと、日本人の班長にビンタを張られたという。

「何より辛いのが空腹。朝はごはんと汁、昼はパン。夜はごはんと汁とたくあん三切れ。いつもお腹がすいてすいて……。宿舎脇の草も食べてお腹を壊し、栄養失調で髪が抜けたこともありました」

地元の子どもたちが寮の鉄条網までやってきて「チョーセンジン」とはやし立てられたことも。皇民化教育を受けた金さんは「内鮮一体なのに」と憤ったという。

当時、富山は米軍による空襲に見舞われている。金さんたちは空襲警報が鳴ると、すぐ逃げることができるよう靴を履いて寝ていた。防空頭巾も与えられなかったので、逃げる時は掛け布団をかぶって外へ出た。特に、大きな被害を出したのが45年8月2日。この日の深夜、170機のB29爆撃機が来襲。50万発以上の焼夷弾を市中心部に投下した。不二越の宿舎と工場は市街地から離れた所にあり、焼失を免れたが、街地の99・5%が焼き尽くされ、2719人が亡くなった。

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