「夜間中学」放送から50年 療養中の兄励ます 向学心に燃える母

金さんが連絡を入ると、白井さんは会議中だったにもかかわらず、すぐ応対してくれた。話を聞き終え、ピンときたらしい。「高オモニのことですか」。

「え、そうです」と返答した金さんは思いもよらない言葉に耳を疑う。

「その映像なら、高知で開催される夜間中学校の学習会に持参しようと思っていたので、いま手元にあるからお貸ししますよ」

番組は、1969年7月にNHKテレビで放送された「こんにちは 奥さん」(66年4月~74年3月末)で、特集「わたしたちは夜間中学生」だった。制作したのは、当時NHK大阪放送局ディレクターだった福田雅子さん。司会は鈴木健二アナウンサーが務めている。福田さんは『生きる 闘う 学ぶ―関西夜間中学運動50年』(解放出版社)の中で、当時をこう振り返っている。

〈この「こんにちは 奥さん」という番組は生放送だったんです。のちになって、大阪府の教育委員会が16ミリの映画フィルムにして残しておられることを知り、ビデオに落としてもらったもので、大変大事な映像になりました。1時間近い生放送で、そのあと花菱アチャコさんの「お風呂とわたし」という話題は、20分弱ぐらいの時間を差し上げる番組だったのです。それが何と10分弱しか話せなかったんです。最後に鈴木アナがインタビューを打ち切ろうとしたとき、一人のオモニが「みんな、学校においで」と言って、マイクの前で叫ばれたのです〉

どんなインタビューでも時間内に収め、進行することで定評のある鈴木アナがこの日できなかったのだという。

この時、熱く語ったオモニこそ、金さんの母だった。

高さんは18年1月、韓国・済州島で4人きょうだいの長女として生まれた。「女に学問はいらない」という時代。学校へ行かせてもらえず、悔しい思いをしたという。

「幼い頃から家事や子守りなどに明け暮れ、唯一の楽しみが日本留学から戻ってきた青年が開いた『夜学』でハングルを学ぶことだったそうです」
16歳の時に大阪・泉南の紡績工場で働き、2年後、済州島に戻って結婚した。

「父は東成区の風呂屋に住み込み、別居生活だったそうです。釜炊きの仕事をしながら、風呂屋の主人に字を習ったと言ってました。ほどなく家族を呼び寄せ、戦後もぼろ布を回収し、きれいに折りたたんで工場へ納める『ウエス業』という仕事をやっていました。母は子育てから手が離れるにつれ、家族で日本語の読み書きができないのが自分だけなのが辛かったみたいですね。ある日、警官が訪ねて来て家族の名前を書くように言われたけれど書けなかった。『そんな常識もないのか』と言われたことが悔しかったようです」

高さんは52歳の時、天王寺夜間中学に入学する。金さんが10歳の時だった。
「夜になると母がいない。兄たちがご飯を作り、私も後片付けをやらされましたが、嫌でしたね。母は家にいても字をよく書いていました。字を書くのが好きやったんでしょうね。亡くなるまで、よく勉強していました」
天王寺夜間中学を卒業して数年後、金さんは同窓会に出席する母に同行する。
「みんな、おばあちゃんの年代ですよ。でも、学校生活を楽しそうに語り合っていました。『体操の時間が楽しかったなあ』とか、『英語は覚えられへんかったなあ』など、学生の顔に戻っていましたね。いい笑顔だったのを今でも覚えています」
白井さんから借りたDVDを、東京の兄は食い入るように見つめていたという。自分たちよりも若い、熱心に学ぶ母の姿がそこにあった。
「えらいお母さんやったなあ。苦労してわしらを育ててくれて、自分がやりたかったことを成し遂げたのやから、えらいわ。元気の素をもろた、ありがとう」
晩年、高さんは軽い認知症を患い、寝たきり生活を送るようになる。映像の中でしっかりしゃべるハルモニ(おばあちゃん)の姿を見た、金さんの長女は思いもよらない「再会」に涙したという。
「世の中にこんなに文字を知らない人がいるなんて、学ぼうとする人がいるなんて知らなかった。機会があれば、私もお手伝いしたい……」(矢野宏)

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