やっと戦後が訪れても、マラリアの脅威は続いた。むしろ罹患者は増え、火葬場は絶え間なく数本の煙を吐き続けたという。火葬場周辺には、順番を待つ何組もの家族の姿があった。
戦後しばらくして、潮平さんの友人宅の押し入れから巾着袋が見つかった。キニーネが大量に入っていた。戦時中、将校宿舎に接収されていた家だった。住民はもとより、下級兵士の手にもわたらなかったマラリアの特効薬キニーネ。軍が、隠し持っていたものを、引き揚げ時に置いていったのだった。
昨年12月、潮平さんは石垣市内で初めての作品展を開いた。反響は大きく、さらに約30枚の絵を描き上げ、7月半ばに再び作品展を開催した。「慰安婦」を両脇に抱えながら千鳥足で宿舎に帰っていった司令官、山中に「慰安所」を作る資材とするため、引き倒された新築の八重山高等女学校の校舎。酷使され虐待されていた朝鮮人軍属の姿も――。2度の作品展を企画したのは友人の詩人、八重洋一郎さんら。八重山の戦争の実相がどのようなものであったのかを訴えることができるのは、潮平さんのデッサン力以外にないと「どんどん描いてほしい」と強く背中を押したという。
島の空気はこの10年で激変した。2010年の市長選で、5期目を目指した革新現職が敗れ、タカ派の中山義隆氏が初当選。市議会も保革が逆転した。日中の緊張が高まる契機となった中国漁船衝突事件はこの年に起きた。15年、国は中国の脅威を理由に陸自ミサイル基地の配備方針を市に伝達。昨年7月、中山市長は受け入れを表明し、今年3月には造成工事が始まった。
「過去にあった事実を見せつける。一つの抵抗として」。軍隊が支配した島で何が起きたのか。じわじわと追い詰められていくような焦燥感に駆られながら、潮平さんは画用紙に向かい続けている。