沖縄・石垣島(石垣市)在住の美術家、潮平正道さん(86)が自身や市民が体験した戦争体験の鉛筆画を描き続けている。若い世代に伝えるためにも、絵は大きな力になるという思いからだ。石垣島での戦時中の映像や写真は皆無に近い。これまでに描いた作品は約60枚。7月半ばには「郷土の眼と記憶」と題し、2回目の作品展を開いた。「友人から聞いた体験など、絵に残さねばならないことがまだまだあります」。戦争の実相を絵に刻む丹念な作業を重ねる。(栗原佳子)
1933年生まれの潮平さんは長年、島の子どもたちに戦争体験を語り継いできた。約10年前からは「絵があるとより伝わる」と、体験画を描き、説明するようになった。
物心ついたころには戦争の存在が身近にあった。南京陥落の提灯行列に母に手を引かれて加わったのは4歳の時。小3で太平洋戦争開戦、旧制中学1年で敗戦を迎えた。
「子供たちには絵を見せて、これは何をしているところだと思う? って聞きます。それでいろいろ考えさせて。それから絵の説明をしながら体験を話すんです。小さな子でもよく聞いてくれますよ」
島言葉を使うと首にかけられた「方言札」のこと。奉安殿にお辞儀をしないで教室に入り教師に殴られたこと。軍隊さながらに校庭を行進し、竹やり訓練に勤しんだこと。軍作業に駆り出されたことも。「自宅の石垣の上半分を崩し、港まで僕たちがもっこで運び、軍用桟橋を作ったんです」
太平洋戦争末期の45年4月、八重山中学に入学すると同時に潮平さんは鉄血勤皇隊に動員された。大きな木の上で米軍機を監視したり、「戦車に体当たりして自爆する訓練」をしたりしたり。「『タコツボ』に身を潜めて潜望鏡で様子をうかがい、別の隊員たちがひもで引っ張る戦車の模型が近づいてきたら、飛び出して突撃するんです。背中には爆弾を入れる箱を担いで」