敗戦の前の日に最後の大空襲「京橋駅空襲」から76年

終戦前日に数百人の命を奪った「京橋駅空襲」の慰霊祭が8月14日、大阪市城東区のJR京橋駅南口近くの慰霊碑前で営まれた。今年も新型コロナウイルス感染防止のため参列者席は設けられなかったが、読経が流れる中、遺族や市民らが焼香し、手を合わせた。その中に76年前の空襲で母と兄を亡くし、戦災孤児になった吉冨玲子さんの姿はなかった。

 

 

1945年8月14日午後1時過ぎ、大阪上空に145機のB29爆撃機が来襲。目標は当時「東洋一の軍需工場」と言われた大阪陸軍造兵廠だった。これまで6月7日、26日、7月24日と3回の空爆を受けたが、ほとんど無傷だった。

この日、米軍は1㌧爆弾570発、500㌔爆弾273発が投下され、目標を外れた4発の1㌧爆弾が国鉄京橋駅を直撃した。

 

「京橋駅空襲被災者慰霊祭世話人会」の資料に当時の惨状が記されている。

「当時の国鉄京橋駅付近は、一瞬のうちに焦土と化した。駅舎は吹き飛び、線路は飴のように曲がり、付近の民家や工場も大打撃を受けた。がれきの山に埋まる死体、幼子を抱きかかえるようにして無言の死を遂げた母子の悲惨な姿、あちらこちらに飛び散る手足や肉片、両足を切断されて必死で助けを求める者、身体が土砂の下敷きとなり顔だけ出して絶叫する者、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものとなった」

「救護活動も思うようにならない。多くの人々が土砂に埋まっていたが、掘り返す道具もない。地面から出ている体の一部を手掛かりに、人の手で引き上げることぐらいしかできない。土砂や壁、大きな石の下敷きになった人々から『助けてくれ』という悲痛な声、『辛抱してくれよ』と声をかけるだけで、なすすべもなく多数の人がそのまま息絶えた」

死者は身元が確認できただけで200人余り、実際の犠牲者は500人を超えるとされた。

 

あの日、13歳だった吉冨玲子さんは、母(享年48)と国鉄城東線寺田町駅から電車に乗り込み、大阪駅に向かった。召集を受け、姫路の連隊に入隊する長兄(享年18)を見送るためだった。父はすでに病死していた。

京橋駅に到着する直前に空襲警報が鳴り、電車は上り下りとも停止。母と一緒に逃げ込んだ片町線のホーム西側の防空壕付近は避難してきた乗客でごった返していた。間もなく1㌧爆弾が炸裂。駅舎は吹き飛び、がれきが乗客を押しつぶした。

ちぎれた手足や肉片が飛び散り、あちらこちらから泣き喚く声、助けを求める悲痛な叫びがしたという。吉冨さんは梁や大きな石などの下敷きになって身動きできず、何度も気を失いかけた。

「玲子、玲子」と、隣で名前を呼び続けていた母の声もやがて聞こえなくなった。窒息死だった。

その日の夕方、助け出された吉冨さんは駅近くの市立聖賢国民学校(現・聖賢小学校)の講堂に収容された。翌15日の昼過ぎ、探しに来てくれた次兄から長兄の死とともに日本の敗戦を知らされた。

「せめて一日早く戦争が終わっていたらねえ、母と兄は死ななくてすんだと思うと悔しくてねえ」

 

日本はポツダム宣言の受諾をすでに決めており、米軍の航空部隊にも伝わっていた。にもかかわらず、米軍による「フィナーレ爆撃」は強行された。

 

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