尼崎歴史散策①「大物(だいぶつ)くつれ戦跡碑」瓜につられて明かした細川高国の隠れ場所

大阪市廃止か存続かを問う住民投票の取材に追われ、ここ3カ月ほど、自分の時間が取れなかった。「新聞うずみ火」を通常より3日前倒しして発送した翌21日、地元の尼崎市内を歴史散策するツアーがあり、参加した。

1週間ほど前にたまたま手にした新聞で見つけた日帰りツアーで、取材の合間に申し込んでおいた。主な旅程は、大物くずれ戦跡碑―残念さん墓―義経・弁慶隠れ家跡碑―尼崎藩主桜井松平氏の菩提寺・深正院(じんしょういん)―尼崎城天守閣。案内役は元毎日新聞記者の佐竹通男さん。

この日は小春日和。午前10時、阪神「大物(だいもつ)駅」改札口に集合した一行は13人。見たところ70歳~80歳代の男女の先輩たち。新型コロナ感染防止のため、全員マスク着用、検温の後、出発した。

大物は尼崎城下の一つで、平安時代から船舶の発着場として発展した港町だった。地名の由来について、佐竹さんは「諸説ありますが」と前置きし、「平安時代に港町として栄えていた尼崎の材木集散地がこの地にあり、この巨材を『大物』と呼ばれていたことから、いつしかこの地を大物と呼ぶようになったという説が有力です」と説明した。

源平時代、源義経が壇之浦の合戦で平家を滅ぼした後、兄の頼朝の追討を逃れるために船出したのが大物浜とされ、謡曲『船弁慶』や『義経千本桜』として歌舞伎でも広く知られている。

駅から西へ200メートル。紅葉鮮やかな公園を抜けたところに「大物くつれ戦跡」碑がある。高さ2メートルほどの石碑で、側面には「昭和大典記念」の文字が刻まれていた。1928(昭和3)年に行われた昭和天皇の即位式「昭和大典」を記念して、在郷軍人会や国防婦人会などが建立した碑だという。

市教委の説明版にはこう記されている。

〈応仁の乱をきっかけに、戦国時代となった頃、室町幕府の実権を握った細川氏も、内部で対立してきます。細川政元の養子、高国と甥の晴元がそれぞれ対立すると、尼崎の地でたびたび戦火を交えています。享禄4年(1531)両者が決戦するに至ったとき、高国勢は総くずれになり、高国が居城した尼崎城(大物城か)へ逃げ込むほどの大敗となりました。晴元勢の追撃は激しく高国は大物の広徳寺で自刃しました。この戦いを世人は「大物崩れの戦い」とよんで、語り伝えられてきました〉

日本史の中で、「素通りされる時代」である。

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