長崎と小倉、命運を分けたのは「八幡大空襲による靄(もや)」だったかも…

長崎は8月9日、米軍による原爆投下から76年を迎えた。

原爆犠牲者を追悼する「平和祈念式典」で、田上富久市長が平和宣言を読み上げた。

「日本政府と国会議員に訴えます」と切り出し、田上市長はこう訴えた。

「核兵器による惨禍を最もよく知るわが国だからこそ、第1回締約国会議にオブザーバーとして参加し、核兵器禁止条約を育てるための道を探ってください。一日も早く、核兵器禁止条約に署名し批准することを求めます」

平和宣言を読み上げる田上市長(テレビ長崎のHPより)

長崎に原子爆弾が投下されたのは1945年8月9日午前11時2分。当時の長崎市は人口24万人。そのうち7万人以上がその年の末までに死亡した。原爆症などによる苦しみは戦後も続き、原爆死没者名簿に記された総数は18万9163人に上る。

76年前、テニアン島を飛び立ったB29爆撃機「ボックスカー」の投下目指は当初、福岡県小倉市(現・北九州市)だった。西日本最大級の兵器工場「小倉陸軍造兵廠」に狙いを定めたのだ。だが、米軍資料によれば、「原爆投下を3回試みたが、目標が地上の濃いもやと煙で見えず、第2目標だった長崎への攻撃を決定した」とある。

当時、原爆投下はレーダーではなく、より確実な目視で行うことが厳命されていたという。

 

長崎と小倉、その命運を分けたのが「八幡大空襲によるもや」だったかもしれない。

前日の8日、小倉から数キロ西にある八幡がB29爆撃機による大空襲に見舞われていた。攻撃目標は日本の工業の屋台骨を支えた八幡製鉄所。死傷者は県内の空襲では最大規模の2500人にのぼった。その残煙が小倉の上空を覆ったため、次の目標だった長崎に向かったといわれている。

余談ながら、B29爆撃機が最初に行った日本本土空襲は44年6月16日の八幡空襲だった。その1年後、米軍は再び八幡への空襲を計画したが、悪天候のために断念。代わりにターゲットにされたのが大阪だった。世にいう「第4次大阪大空襲」である。

B29爆撃機444機が来襲、15日午前8時40分から2時間にわたって焼夷弾3150㌧を投下。隣接する兵庫県尼崎市を含め、470人が死亡、17万6000人が被災した。

この第4次大阪大空襲で、日本6大都市のうち、京都を除く東京、横浜、名古屋、大阪、神戸はほぼ壊滅。米軍による日本本土空爆のターゲットは地方の中小都市へ転換するのだが、もしも6月15、16日に八幡空爆が行われていたら、8月8日の空襲はなかった。となると、小倉に原爆が投下されていた可能性が高かったのだ。

平和祈念式典(NHK「ニュース’7」より)

 

田上市長は平和宣言の中で、「地球に住むすべての皆さん」と呼びかけ、こうも訴えている。

「私たち人類はこれからも、地球を汚染し、人類を破滅させる核兵器を持ち続ける未来を選ぶのでしょうか。脱炭素化やSDGsの動きと同じように、核兵器がもたらす危険についても一人ひとりが声を挙げ、世界を変えるべき時がきているのではないでしょうか」

過去を知り、想像する力を持ち続けたい。無関心のままでは何も変わらない。(矢野宏)

 

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