大垣空襲と福山空襲74年 地方都市の戦禍記録

敗戦から74年。戦禍を生き抜いた人たちの高齢化が進むなか、その「記憶」を「記録」にと、この夏、空襲で甚大な被害を受けた岐阜県大垣市と広島県福山市を訪ねた。(矢野宏)

大垣市は濃尾平野の西側に位置し、水陸交通の要所として栄えた城下町。太平洋戦争末期の1945年3月3日から7月29日までに6回の空襲に見舞われた。7月24日には、1機のB29爆撃機が大型爆弾1発を投下。死者20人、重軽傷者十数人、倒壊家屋約20戸の被害を出した。当時の人々は、知る限りの大型爆弾ということで「1トン爆弾」と呼んだが、長崎へ投下された原子爆弾と同じ形、重さの「模擬原爆」だったことが判明する。

「あの恐怖は忘れられません」。市戦災遺族会長の安田寛さん(81)は今も鮮明に覚えている。当時8歳、国民学校2年だった。

朝8時ごろ、安田さんの父、義男さん(当時42)はいつもより早く自宅を出た。「軍と役場との会議があるから、早く出て準備をせにぁいかん」。勤務先は自宅から数百メートル離れた旧県農業会(現農協)支部。母も電話交換の仕事へ向かった。一人息子の安田さんは縁故疎開していたが、前日に父親が迎えに来て自宅に戻ったばかり。裏庭で遊んでいると空襲警報が鳴った。「ひろちゃん、空襲だよ」。隣家の人から声をかけられ、家に入って布団をかぶろうと押し入れに手をかけた瞬間、「ドドーン」という爆音がとどろいた。

「足元から突き上げるような衝撃でした。ガラス窓が粉々に飛び散り、壁が崩れて土ぼこりが立ち込め、視界が遮られました」。自宅は傾き、屋根は吹き飛んでいた。

爆弾は父の勤務先を直撃。木造2階建ての建物は跡形もなかった。父が即死したことは、母から聞かされた。

「遺体は善光寺の廊下にむしろを敷き、並べてあったそうです。顔面の前半分が吹き飛び、後頭部だけで確認できなかったのですが、親戚の田植えを手伝ったばかりで、泥で黒くなった爪とベルトで本人だとわかったと聞きました」

母子は知人の紹介で借家に移り住んだが、5日後の29日夜、空襲警報が再び鳴り響いた。90機のB29が来襲、次々に焼夷弾を投下した。

安田さんは母に手を引かれ、外へ飛び出した。降り注ぐ焼夷弾に、逃げ惑う多くの人たち。母は迷うことなく、大垣城の隣の公園内にある防空壕を目指した。すでに30人ほどが避難しており、「どうか、入れてほしい」と懇願する母に容赦ない声が飛んだ。「ここは御殿町の防空壕や。よその人は他に行って」。街を焼き尽くす猛火が迫っていた。この窮地を一人の男性が救ってくれた。「この非常時に何を言うとる」と一喝してくれたのだ。

「防空壕の外で『ゴー』という風音、火が激しくはじける音などが聞こえてきました。母が覆いかぶさってくれていたのですが、暑苦しかったです。翌30日未明、警報が解除され手外に出ると、城がものすごい火を噴いて燃えていました」

国宝だった大垣城天守をはじめ、人口5万6000人の街は焼き尽くされた。死者50人、重軽傷者100人余、倒壊家屋約4900戸。安田さんは翌日、橋の下に逃げ込み、焼け死んだ死体を見た。

母と2人、焼け残った親戚宅を転々とするなかで8月15日を迎えた。

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