大垣空襲と福山空襲74年 地方都市の戦禍記録

広島への原爆投下から2日後の8月8日夜、広島県東部の福山市は91機のB29による無差別爆撃を受けた。照明弾が夜空を照らし、次々に焼夷弾を投下していく。1時間ほどの空襲で市街地の8割が焼失、355人が犠牲となった。


市人権平和資料館副館長の寺地靖仁さんは「米軍の目標は、飛行機の部品を組み立てていた三菱電機福山製作所と帝国染料などの軍需工場や、陸軍歩兵41連隊司令部と言われていますが、それらは郊外にあり、ほとんど被害を受けていません。狙いは市街地だったのです」と説明する。

攻撃についても、「地図上に半径1.3キロの円を描き、その中心部にナパーム弾を落とし、後続のB29が焼夷弾を次々に投下していく、燃やし尽くす作戦です」

森近静子さん(81)は当時7歳で国民学校2年。寝具屋を営む父と母、1人の姉と3人の妹の7人家族で、市街地のはずれにあった工場へ移り住んでいた。
空襲警報が鳴り響くと、父はバケツ二つ持って警防団の人と集会所へ向かい、母と5人姉妹は3畳ほどの防空壕へ避難した。少し開けていた入口から落ちてくる焼夷弾が見えた。「ドーン」という破裂音も聞こえる。ほどなく、消火活動へ行っていた父親が「もう、だめだ」と言って防空壕へ滑り込んできた。

「シュウシュウシュウシュウ」という不気味な音とともに焼夷弾が落ちてきた。防空壕を覆っていた、厚さ3センチほどの板は割れ、5メートル先にも破片が飛び散るなど、すさまじい破壊力だった。

「怖くて、怖くて生きた心地がしなかった。つらくて涙が出ました」

警報解除の後、森近さんら姉妹は自宅に戻ったが、眠れないまま夜を明かした。

工場の周りにも焼夷弾が落ちていたが、幸いなことに不発弾だった。被災を免れた叔父が、姉と森近さんを迎えに来てくれた。道すがら、橋に寄り掛かるように一人の女性が死んでいるのを見た。

空襲から1週間後の15日、叔父の家で森近さんは何も知らされないままラジオに向かって正座していた。重々しい言葉が流れてきたが、意味は分からない。周りの大人たちが泣いているのを見て、涙がこぼれてきたという。

なぜ、大垣空襲の犠牲者が50人と、少なかったのか。当時は「防空法」によって都市部の市民は逃げることが許されず、消火活動が義務付けられていた。逃げれば1年以下の懲役又は罰金500円。当時の小学校教員の初任給が55円だった時代に、である。

「空襲体験を語り継ぐ大垣の会」の高木正一さんは「20日前の岐阜空襲の影響があった」と指摘する。900人の犠牲者を出した惨状を知った市当局がその日に出した通知が残っているという。

〈今回の焼夷弾は、その発火と火の回りの早きこと、従来のそれとは大いに異なり、到底初期防火など思いもよらざるを教えられたり。その結果、避難を主とすることに当局の方針を変える〉

1週間後には撤回されるが、「一時的とはいえ、市民の命を守るための指示を出したこと、そういう考えを市当局が持ったことが重要だ」という。

さらに、岐阜空襲を目の当たりにしてバケツリレーなどで焼夷弾の火が消せるわけがないと考えていた元少年兵が軍の規律に反し、率先して市民を避難させたことも明らかになっている。

大垣空襲で亡くなった人が少なかったのは様々な条件もあるが、市当局からの指示が反映していたのかもしれない。

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