74年前の7月10日に堺市を襲った「堺大空襲」で母と弟を亡くした浜野絹子さん(79)=大阪府茨木市=は語り部活動とともに、公民館の教室などで絵手紙を指導している。生徒たちと年1回、展示会を開いているが、2年前に「政治信条を書いた作品に不快感を覚えた」という苦情の手紙が届いた。「自由にものが言えない時代に逆戻りしているのかも」。浜野さんの心は今も晴れない。(矢野宏)
来襲した116機のB29による無差別爆撃で1860人が亡くなった。
当時、浜野さんは6歳。父親は出征しており、母親と4歳の弟と3人暮らし。寝ていたところを起こされ、預金通帳と2月に亡くなった弟の位牌などが入ったリュックを背負わされた。母親は栄養失調で寝たきり状態だったが、浜野さんを外に出し、玄関に鍵をかけた。「おかあちゃんごめんね」。泣き虫だった浜野さんは泣いて許しを請うたが、戸が開くことはなかった。
焼夷弾の落下音が闇夜にとどろき、周りは火の海。小学校へ向かう人波に紛れ、爆風を避けるためはうように逃げた。避難者であふれる校内。浜野さんは講堂の片隅で座ったまま一夜を過ごした。
尼崎市の大叔父に連れられ自宅に戻ると、家は全焼。瓦などを取り除くと、玄関で黒焦げになった母親と対面した。「頭の中は真っ白でした」。弟は見つからなかった。
そんな体験を題材にして、作家の早乙女勝元さんが絵本『おかあちゃんごめんね』を出版すると、浜野さんに講演依頼が寄せられ、語り部としての活動を始めた。
子育てから手が離れると、画材商を営みながら、水彩画を学んだ。今では福井公民館など市内14カ所で絵手紙などを指導。8年前から毎年、150人の教え子らと展示会を開いている。
苦情の手紙が届いたのは2年前。差出人の住所氏名はなく、パソコンで書かれたA41枚が入っていた。〈いつも母がお世話になっております。今年も展示会が催されると聞き、拝見させていただきました〉と始まり、こう続く。
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