俳優・宝田明さんが語った旧満州(下) ソ連兵が自動小銃の引き金を引いた…

旧満州に侵攻してきたソ連兵はやりたい放題だった。略奪、強姦……治安は乱れた。ついには、宝田明さん一家が暮らす社宅にも押し入ってきた。(新聞うずみ火 矢野宏)

 

兄2人は現地召集されていた。社宅から見ると、武装解除させられた関東軍の兵士たちがハルピン駅で貨物車に乗せられている。そのうちの一人が社宅に向かって手を振っているように見えた。「もしかしたら兄ではないのか」と、駅に向かって走った。すると、兵士たちが「帰れ、帰れ」と手で払いのけるような仕草をしている。「何だろうな」と思って近づくと、ソ連兵が走って来て自動小銃の引き金を引いた。ダダダダッ――という銃音が響き渡り、宝田さんは転げるようにして逃げ帰った。「家に帰ったら、右腹部が熱くてしょうがない。見ると、血だらけでした」

MBSラジオ「ニュースなラヂオ」で宝田明さんに話を聞く=2018年8月24日、東京都内の宝田さん宅(撮影・亘佐和子さん)

 

病院はソ連軍に接収されている。自宅で赤チンなどを塗ったりしたが、翌日には化膿して膨れ上がり、熱も出てきた。3日目、母が連れてきたのは関東軍の元軍医だった。

「イカを干すみたいにベッドに両手足を縛られ、元軍医は母親に『裁ちバサミはありますか。よく焼いてきてください』と言い、私には『明君は日本男児だろ。少し痛いが我慢しろよ』。母から熱した裁ちバサミを受け取ると、オキシドールをかけて私の腹にブスッと刺した。麻酔なんてありません。激痛で失神しそうでした。さらに十字に切り、まさぐるようにして取り出したのは鉛の弾でした」

鉛は鉛毒で身体を腐らせるから国際法で使用が禁止されていた。九死に一生を得た宝田さんはこう語る。

「傷つけられた相手への恨みは一生消えない。私は助かったが、愛する家族や友人を殺された人の恨みはもっと深い。逆に、自分が傷つければ相手の恨みが残る。『やった』『やられた』という恨みの連鎖が繰り返されていく。戦争とはそういうものです」

引き揚げ列車でハルピンを出たものの、共産党の八路軍に追われた国民党軍が線路や鉄橋を爆破していたため、数時間走ると必ず止まった。ついには歩いて引き揚げ船が待つ港を目指すことになった。

参照記事:俳優・宝田明さんが語った旧満州(上)「夢は関東軍兵士、軍国少年だった」

MBSラジオ「ニュースなラヂオ」の収録後、亘ディレクターと3人で記念撮影=2018年8月24日、東京都内の宝田さん宅

「野を越え、山を越えるうちにお腹が空いてくる。中国人の畑に入り、野菜みたいなものがあったら引っこ抜いて食べたりしました。ところが、0歳児から2歳児ぐらいの子どもに与えるものもないわけです。道でふかしたジャガイモなどを切った物を台の上に乗せて商売する中国人に、母親は『子どもを殺すよりは、預けた方がいいだろう』と、おしめを5、6枚と肌着を3、4枚与えて、涙の別れをする人たちを何人も見ました」

中国の養父母に育てられた中国残留孤児は成長すると、日本人だといじめられ、祖国に戻って来ても政府は知らん顔。「なんと日本は冷たい国なのか」と宝田さんは憤る。怒りは、数の力で改憲を推し進めようとする勢力に対しても向けられた。

「どんな大義名分があろうと、戦争は殺し合い。戦闘員だけでなく、何の罪もない無辜(むこ)の民が犠牲になる。戦後70年あまり、戦争はしない、武器も持たない、よその国の戦争に加担しないという世界に冠たる憲法を持っている。それがなし崩し的に、数で押し切るなど、もってのほかです」

 

宝田明さんは旧満州から引き揚げ後、1953年に東宝ニューフェイス第6期生として俳優生活をスタート。54年に映画「ゴジラ」で初主演を果たす。64年に文部省芸術祭奨励賞、72年にゴールデンアロー賞。2012年に舞台「ファンタスティックス」で文化庁芸術祭大衆芸能部門大賞を受賞。

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