俳優の宝田明さんは、南満州鉄道株式会社の技術者だった父親の転勤で、2歳の時に旧満州(現中国東北部)ハルピンに移り住んだ。将来は関東軍の兵隊として「北の防塁たらん」と夢見る軍国少年だったが、戦局の悪化で旧満州は……。(新聞うずみ火 矢野宏)
1945年8月9日の夜、爆音が轟き、真赤な火柱がハルピン駅の付近に立ち上った。ソ連侵攻による空爆だった。
ほどなく、「来る8月15日には大切な放送があるから、海外の残留邦人の皆さんはラジオの前にお集まりください」というラジオ放送があり、その当日、玉音放送を聞いた両親は腰が抜けたように畳に座り込んでしまった。小学5年生だった宝田さんも「臓物をもぎ取られ、ぽっかりと身体に穴が開いたような気がしました」
1週間後、グオーッという轟音とともに、6畳はあろうかと思えるソ連の戦車40両がハルピンへなだれ込んできた。略奪、強姦……早速、治安は乱れた。女性は髪を切って坊主にして風呂敷をかぶり、買い物にも5、6人で一緒に出かけた。
ある日の夕方、宝田さんが社宅2階から外を見ていると、近所のご婦人が一人で荷物を抱え戻ってきた。「危ないなあ」と思っていたら、案の定、2人のソ連兵が近づいてきた。その婦人は襟首をつかまれ、「助けて、助けてください」と泣き叫んだ。宝田さんは交番があったことを思い出し、助けを求めて駆け込むとソ連の憲兵がいた。ロシア語で「カピタン、パターリヒト」(将校さん、来てください)とお願いし、引っ張るようにして現場へ行くと、婦人は下半身裸にされ、2人に辱めを受けているところだった。
「その奥さんは1年半後に博多湾に上陸するまでご主人に手を引かれ、錯乱状態のままでした」
ソ連兵は満鉄の社宅にも押し入ってきた。その両腕には、日本人から略奪した時計が8個以上はめられていた。
「一人の兵隊が私の後ろに立ち、自動小銃を構えている。冷たい鉄の銃口が右ほほに触れた時、奥歯をかみしめても歯がカチカチカチと鳴っていました」
ソ連兵たちは家財道具を根こそぎ略奪し、出て行った。(続く)
参照記事:俳優・宝田明さんが語った旧満州(上)「夢は関東軍兵士、軍国少年だった」
宝田明さんは旧満州から引き揚げ後、1953年に東宝ニューフェイス第6期生として俳優生活をスタート。54年に映画「ゴジラ」で初主演を果たす。64年に文部省芸術祭奨励賞、72年にゴールデンアロー賞。2012年に舞台「ファンタスティックス」で文化庁芸術祭大衆芸能部門大賞を受賞。