阪神・淡路大震災の発生から27年となるのを前に、神戸市内で障害を負った「震災障害者」と東日本大震災の県外避難者との交流会が1月9日、神戸市中央区の市勤労会館で開かれた。いずれも正確な人数すら把握されていない「忘れられた被災者」。登壇した9人が自らの被災体験やこれまでの苦難について語り合った。(矢野宏)
主催は、神戸市を拠点に被災者支援を続けてきたボランティア団体「よろず相談室」と、福島や宮城県から避難してきた人たちを支える大阪府茨木市のNPO法人「災害とくらしの相談室iroiroの(イロイロ)」。
神戸市北区の城戸洋子さん(41)は阪神・淡路大震災が発生した1995年1月17日、同市灘区の自宅でピアノの下敷きになり、意識を失った。病院に運ばれたとき、医師から「助かる望みは3%」と告げられたが、母の美智子さん(69)らの献身的な介護もあって奇跡的に回復した。
「でも、そこからが戦いでした」と美智子さんは振り返る。
「落ち着きがなく、病室からすぐに出て行ってしまう。顔を洗いに行ったらいつまでも歯を磨いている。お風呂に入っても身体をちゃんと洗えない。これまでの娘ではない。『なんで?』ということが次から次に出てきた」
障害名がはっきりしたのは震災から6年後のこと。「高次脳機能障害」。脳の損傷により、注意力や記憶力、感情のコントロールなどの能力に問題が生じ、日常生活や社会生活が困難になる障害だった。現在、知的、精神、身体障害の手帳を持つ。
美智子さんは「誰に相談したらいいのかわからない、窓口すらない。震災で障害を負ったのに補償すらない、忘れられているという心の怒りが泣き寝入りしない原動力になった」と語り、こう言い添えた。「希望や夢も考えられない。これまでの26年は重い道のりでした」
同じ阪神・淡路大震災で被災した神戸市北区の甲斐研太郎さん(73)。当時、同市東灘区の木造2階建ての自宅が全壊。倒れてきたタンスに両足首をはさまれ、その上に2階部分が落ちてきた。足の激痛が走る中、20時間後に救出されたが、圧迫されて筋肉細胞が壊死する「クラッシュ症候群」になった。両足を40㌢ほど切開し、背中や太ももから切り取った組織を移植。11カ月間の入院を余儀なくされ、計8回の手術、リハビリを経て、何とか装具なしで歩けるようになった。だが、入院費などの医療費免除は95年で打ち切られ、自己負担は600万円ほどかかったという。
「東日本大震災は発生からまだ10年ほどで、先は長い。国や自治体は被災者が希望を持てる政策を考えてほしい」
東日本大震災の東京電力福島第一原発事故による放射能を避け、福島県郡山市から大阪府茨木市に、息子2人と避難している熊田朋香さん(45)は、阪神・淡路、東日本、そして大阪北部地震と三つの地震を体験した。「一番心が壊れたのが東日本大震災だった」という。
「子どものことを考え、大阪の実家に避難することを決めたが、罪悪感があった。一人残った夫からもなかなか理解されず、長男が卒業するまで会いに来なかった。でも、震災から10年がたち、息子たちの成長を見ながら『選択は間違っていなかった』と思う」
災害とくらしの相談室iroiro代表理事の片岡誠さんは「東北からの県外避難者も1832人と言われているが3000人ぐらいはいる」。よろず相談室の牧秀一さん(71)も「兵庫県と神戸市の調査では阪神・淡路大震災の震災障害者は349人だが、神戸市だけでも2000人以上」と推定し、「まず人数を確認こと。震災障害者の実態把握に向けて国に働きかけていく」と訴えた。