尼崎歴史散策①「大物(だいぶつ)くつれ戦跡碑」瓜につられて明かした細川高国の隠れ場所

細川氏は、機内・四国を中心に一門で8カ国を治めた守護大名。将軍を補佐する管領を務める三家の一つ。歴史のひのき舞台に登場したのは、応仁の乱で東軍の総大将となった細川勝元(1430~73)。その子・政元には実子がなかった。一門から迎えた養子―高国(1484~1531)と晴元の父、澄元による家督争いは20年余りも続いた。

西国の大大名、大内義興が上洛した際、高国は大内氏の軍事力を背景に管領に就任したが、澄元の後を継いだ晴元と対峙する。1531年6月4日、高国軍は大敗。参戦した赤松政祐の支援を得たかに見えたが、裏切りにあって総崩れとなったのだ。

佐竹さんの説明によると、敗戦の混乱の中、高国は戦場を離脱。大物城へ逃げ込もうとしたが、すでに赤松方の手が回っていたため、尼崎の町内にあった藍染屋に逃げ込んで隠れていたという。

「晴元軍は、高国を探し出すため、まくわ瓜をたくさん用意し、子どもたちに『隠れているところを教えてくれたら、この瓜をあげよう』と言うと、高国が隠れていた場所を見つけて報告したという逸話が伝わっています」

高国は、仇敵の晴元の命により、尼崎の広徳寺で自害させられた。享年48

 

大物(だいもつ)の「残念さん」の一人である。

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