「大阪大空襲の体験を語る会」が3月末で解散する。大阪の主婦が「空襲の記録を残そう」と呼びかけて半世紀近く、会員の減少と高齢化で活動そのものが困難になったため。代表の久保三也子さん(90)=大阪市福島区=は一抹の寂しさを感じつつも、「空襲体験の語り部は体が許す限り、続けていきます」と力強く語った。(矢野宏)
大阪は太平洋戦争末期の1944年11月から敗戦前日の45年8月14日までに50回を超える空襲を受け、死者・行方不明者は約1万5000人。100機以上のB29爆撃機が来襲した大空襲は計8回を数える。
70年に作家の早乙女勝元さんらが「東京空襲を記録する会」を発足。刺激を受けた大阪府豊中市の主婦、金野紀世子さん(2008年5月に85歳で死去)が翌71年3月、朝日新聞に「大阪大空襲を私たちの手で記録にとどめよう」と投稿。2カ月後、天王寺区の教育会館に15人ほどが集い、「語る会」を発足した。久保さんは金野さんと新聞投稿仲間。金野さんから体験記の整理を依頼され、加わることになった。7月には最初の「大阪大空襲体験記」を自費出版する。その後も会員らが手弁当でコツコツと証言を聞き取り、97年までに体験画集を含めて9冊の体験記を出した。 初代代表だった金野さんは生前、こう語っていた。
「どんな人でも話しながら泣きます。聞きながら私たちも涙が出てきます。涙と一緒の仕事やから、よけいしんどいんですわ。そやけど、風化の一途をたどる大空襲の犠牲者への供養になると思ってます」
語る会では空襲で亡くなった「母子像」の建立や追悼式典の開催にも尽力するとともに、小中高校を回って自らの空襲体験を語ってきた。
「火の滝が降る」
99年に金野さんが脳梗塞で倒れ、2001年に2代目の代表となった久保さんは会員名簿を整理し直し、主なメンバーらと証言を語り継いできた。
久保さんは1929年、4人きょうだいの次女として生まれた。父親はアメリカへの留学経験があり、貿易業などを営んでいた。41年12月に太平洋戦争が始まった時、「戦争が2年以上続いたら、日本は負ける」と語っていたという。
大阪が最初の大空襲に見舞われたのは45年3月13日。当時、久保さんは府立泉尾高等女学校(現・府立大正白稜高校)3年生だった。福島区の自宅から南側を見ると、B29爆撃機が投下した焼夷弾のリボンが燃え、「火の滝が降ってきたようだった」と振り返る。
「きれいなもんやなあと思いました。火の滝の下側に浮かび上がっていた家々が次々に消えていくのです」
13日深夜から14日未明にかけての3時間半で、274機のB29によって焼夷弾177トン、6万5000発あまりが投下され、大阪市の中心部、当時の西区や浪速区、南区、大正区などが灰燼に帰した。
翌朝、久保さんは学徒動員されていた大正区の軍需工場へ向かった。教師から「何があっても絶対に休むな」という教師の命令は絶対だった。自宅周辺とは違い、大正区は一面の焼け野原で、工場も学校も庁舎も焼失していた。
自宅待機を命じられ、歩いて帰る道すがら空襲の惨劇を目の当たりにする。
防火用水の周りには焼け焦げた遺体が散らばっていた。橋の上では窒息した死骸がいくつも倒れており、久保さんは「ごめんね」と思いながら、またいで行った。
吹き飛ばされた防空壕の中で亡くなっていた人の内臓を見た時、「同じ死ぬのなら黒焦げになりたい」と思ったほどの惨状だった。
川にきれいな着物の女性が流れていた。「人間やとは思われへんかった。忘れられへん。松島遊郭の女の人やったと知ったんは後のことやわ」
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