阪神・淡路大震災25年 動き出した「心の時計」

凍てついた朝だった。あちこちで街が壊れていた。押しつぶされた家、傾いたビル、高速道路までもが横倒しになっていた。そして悲しい別れがあった……。再び「あの日」が巡ってきた。6434人が亡くなった阪神・淡路大震災の発生から1月17日で25年。被災地では、地震が起きた午前5時46分を中心に追悼行事が営まれ、終日、鎮魂の祈りに包まれた。(矢野宏)

戦後に大都市を襲った初めての直下型地震だった。神戸市をはじめ県内4市と淡路島で、震度7が史上初めて観測された。地震による「直接死」は約5500人。その8割近くが倒壊家屋や家具などの下敷きとなっての圧死や窒息死で、そのほとんどが即死だった。

あの日、神戸市東灘区森南町の加賀翠(みどり)さん(64)は一人娘の桜子ちゃん(当時6歳)を亡くした。木造2階建ての自宅が倒壊し、1階で祖父の幸夫さん(享年75)と一緒に寝ていた桜子ちゃんが生き埋めとなった。「桜子、大丈夫か」。柱や壁、家財道具などに挟まれて身動きが取れないなか、幸夫さんは懸命に叫んだが、返事がない。

ただ一言、「おじいちゃん、苦しい……」といううめき声が桜子ちゃんの最期の言葉となった。

学校や公民館などの避難所はどこも一杯だった。加賀さん一家は近所の1階ガレージにテントを張り、避難生活を始める。

幸夫さんは「俺が桜子を殺した」と自身を責め、酒量も増えていった。気丈に振る舞っていた翠さんも「感情があふれ出す時があった」という。

「テントの中で『お父さん、思い切り泣かせて』と言って、父親の膝で子どものように声を出して泣いたことが2度ほどありました」

震災からわずか1カ月後、市は「震災復興都市計画」を発表、区画整理や再開発、地区計画でまちづくりを進める方針を打ち出した。森南地区も区画整理事業の対象となった。

市側の説明は一方的だった。「減歩率10%。土地を無償でいただきます。土地の出せない人は清算金をいただきます。区画整理をやると資産価値が上がりますから」ーー。

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