阪神・淡路大震災25年 動き出した「心の時計」

住民たちの怒りは爆発した。だが、受け入れざるを得ないのならば、「桜子に誇れる街をつくりたい」。幸夫さんはまちづくり協議会の会長として地域の再建に奔走した。住民集会、市との協議の場を何度も持ち、翠さんも同席して意見を出した。市は一度決めた道路計画を見直し、減歩率も最大で2・5%まで譲歩した。2005年3月に事業完了。それを見届けるかのように幸夫さんは4年後に逝った。

語り継ぐ教員に

毎年1月17日の午前5時46分は自宅近くの森公園で迎えている。森地区では107人が亡くなった。今年の慰霊祭には、震災から5年後に生まれた亮(たすく)君(19)と一緒に参加した。

「鎮魂」と刻まれた慰霊碑には犠牲者の名前とともに、「あの日あの時を忘れたい でも 忘れてはいけない いつまでも」と記されている。震災25年を示す25本のろうそくが並べられ、約50人の住民らとともに黙とうし、献花した。「手を合わせながら、桜子には亮が大学生になったよと報告しました」

亮君は大学1年で、小学校の教員を目指している。小学3年のときには震度3の地震を初めて体験し、翠さんに泣きついたことがあるという。

「震災を体験していないけれど、教員になったら子どもたちの命を守るため、防災教育をどうやっていくか、阪神大震災の教訓をどう語り継いでいくか考えていきたい」

桜子ちゃんが生きていれば31歳。今年も桜子ちゃんと仲の良かった幼稚園の同級生がピンクのトルコキキョウの花束を届けてくれた。桜子ちゃんが好きだった色だ。

「同級生たちもすでに結婚し、子どもも生まれています。25年たっても桜子を失った悲しみは消えることはありませんが、これまで6歳のままだった桜子が、生きていたら30代かと思えるようになりました」
亮君の成長が、止まっていた翠さんの心の時計を動かしたのかもしれない。

福倖酒で再出発

阪神・淡路大震災で被害のあった家屋は、全壊が約10万5000棟、半壊が約14万4000棟に達した。木造家屋の倒壊は、瓦葺き屋根に土壁構造、店舗付き住宅が多く見られた。

神戸市長田区の長田神社前商店街で1950年から「岡田酒店」を営んでいた岡田征一さん(81)と育代さん(77)夫妻も店舗兼住宅が全壊した。店内は酒瓶のほとんどが割れ、酒の匂いが漂う。育代さんは裸足で外へ飛び出したが、不思議とけがはなかった。

震災直後、ライフラインは寸断し、飲み水にもこと欠くありさまだった。「困ったときはお互いさま」と、岡田さんは裏の物置からジュースなどを無料で配った。お返しに、カップ麺をもらって食べたとき、「おいしいと思ったのよ。お腹がすいていたんやねえ」

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