大阪城に残る軍事施設(5)このまま朽ちるのを待つのか…大阪砲兵工廠表門と守衛詰め所

大阪砲兵工廠の建物で現存するのは、化学分析場のほかに、表門と守衛詰所の三つだけだが、朽ちるに任せている。(新聞うずみ火 矢野宏)

大阪砲兵工廠の正門として使われた筋金門(2021年撮影)

豊臣秀吉が築いた大坂城は1615(慶長20)年の「大坂夏の陣」で落城した。大坂城を再建したのは徳川幕府二代将軍の秀忠だった。北国・西国の大名を動員し、豊臣の大坂城を地中深くに埋め、その上に巨大で、まったく新たな大坂城を築いた。

幕府による大坂城再築工事で二の丸の北側に「北外曲輪」(三の丸)が築かれた際、西の入り口に筋鉄門が設けられた。その呼び名の通り、門扉は筋状の鉄板で補強されていたため、明治維新後も残り、1870年に三の丸の米蔵跡に新設された造兵司の「表門」となった。大阪砲兵工廠にはいくつかの門があったが、ここが正門だ。

正門の付近には「大阪砲兵工廠」の碑(2021年撮影)

終戦前日の大空襲で焼失したため、門を支えていた石垣、その上にかさ上げされたレンガ造りの門柱と塀だけが残っている。

投下された爆弾は707トン。被災戸数1843戸、死者359人、重傷者33人、行方不明者79人という記録が残っているが、1トン爆打を投下された砲兵工廠ではどんなことが起こっていたのか。

石垣の上にレンガ作りの門柱(2021年撮影)

2010年春、私が主宰する「うずみ火」が大阪府の委託を受けてDVD「大阪大空襲」(全5巻)を制作した際、大阪砲兵工廠の工員だった近江始太郎(はじたろう)さん=大阪市生野区=にその惨状を聞くことができた。当時83歳だった近江さんの記憶は鮮明だった。

近江さんは大阪陸軍造兵廠技能養成所を卒業し第四製造所で勤務していた。勤務は昼夜の2交代制。工場内には鋼材を討つ機械音が夜通し、響いていたという。「いつも通り、焼けた鋼をハンマーで打ち、大砲の部品を製造していた時でした。空襲警報とともにB29爆撃機のプロペラ音が聞こえ、押さえつけられた異様な落下音がしました。反射的に地下壕に飛び込んだ直後、ものすごい衝撃を受け、失神した。気がつくと真っ暗な中で転がっていました。その後も爆弾の爆発音と地響きで地下壕が揺れ、うずくまりながら母親の顔が浮かびました」

崩れかけている守衛詰所=4月7日、大阪市中央区

爆音がしなくなり、地下壕から飛び出した近江さんは惨状を目の当たりにする。爆風で散乱した鋼材、崩壊した建物。口から泡を吹いた同僚、手や足のない工員、頭をつぶされた女子挺身隊員の遺体。「75年の歴史を持つ大阪砲兵工廠が壊滅した瞬間でした」。近江さんの言葉が思い出された。

壁の一部は崩落している=4月7日、大阪市中央区

表門を入ってすぐのところに、明治の初期に建てられた「守衛詰所」が当時のまま残っている。レンガ造りの平屋。工事用の柵で囲われており、近づけない。荒廃が甚だしく、壁面の一部は崩落している。

参考記事:大坂城に残る軍事遺産(4)大阪砲兵工廠化学分析場 取り壊しもせず、保存もせず…

大阪砲兵工廠の建物で現存するのは、化学分析場と表門、守衛詰所の三つだけだが、保存する気はないらしく、朽ちるに任せてある。

このまま時の流れに歴史を埋もれさせていいのか。

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