大坂城に残る軍事遺産(4)大阪砲兵工廠化学分析場 取り壊しもせず、保存もせず…

大阪砲兵工廠研究の第一人者で武庫川女子大名誉教授の三宅宏司さんの案内で、訪ねたのは大阪城内で現存する砲兵工廠の遺構で最も大規模な建築物だ。(新聞うずみ火 矢野宏)

大阪砲兵工廠の数少ない遺構の一つ「化学分析場」=4月2日、大阪市中央区

大阪城公園の北西、寝屋川にかかる京橋の南側に建てられた「化学分析場」。城内で現存する大阪砲兵工廠の数少ない遺構の一つだ。

赤レンガを用いた左右対称のネオ・ルネッサンス風の 2階建て、地下1階の重厚な建物で、第1次世界大戦後の1919(大正8)年に完成した。設計したのは陸軍技師の置塩(おじお)章(1881~1968)。第四師団司令部や砲兵工廠関係の施設の設計にたずさわり、兵庫県庁へ移籍後は県会議事や旧尼崎警察署など公共建築物を多く手がけた関西を代表する建築家である。

戦前・中と化学分析場では、砲兵工廠で扱う鋼材の質、定性・定量分析など、化学や物理に関する一切の調査・試験を行っていたという。

空襲を生き延びながら、放置されている化学分析場=4月7日、大阪市中央区

終戦前日の大空襲による破壊をまぬがれ、戦後は大阪大学工学部の校舎、陸上自衛隊大阪地方連絡部庁舎として1994年まで使用されたが、自衛隊移転後は閉鎖された。

今は近づけないように古びた柵が張り巡らされ、不法侵入防止のため、すべての窓には黒い板がはめ込まれている。建物の劣化が著しい。

「管理者はあの悪名高き財務省近畿財務局です」と三宅さんは切り出した。「建物を取り壊すのか、保存するのか尋ねたら、決まっていないとのことでした。『旧本館』の建物ように壊して更地にするには二けたの億というお金がかかるというのです」

取り壊しもせず、保存もせず。空襲を生き延びた戦争遺跡は朽ち果てるまで、このまま放置されるのだろうか。

化学分析場近くにある黒い岩の船?=4月7日、大阪市中央区

化学分析場の南の園路沿いに、黒い岩のようなものがある。長さは5メートル、幅2メートル、高さ50センチほどで、中央部がくぼみ、水が溜まっている。どこか、小舟のような……。

三宅さんは「これ、何だと思いますか」とツアー一行に尋ねた。もちろん、答えは返ってこない。

参考記事:大阪城に残る軍事遺産(3)大阪砲兵工廠旧本館 人目避け取り壊した大阪市

「昭和の終わり頃までここに大阪城公園事務局の立て看板がありました。文禄・慶長の役で朝鮮から持ち帰った石の船だと書いてあったのです。大阪市の許しを得て、この物体から20カ所ほどサンプルを取って調べたらすべて鉄でした。石の部分はゼロ。溶鉱炉の底にたまり、取り出した鉄の塊まりのようです」

大阪市に調査結果を報告すると、説明版は撤去されたままだという。

答えは鉄のかたまりでした=4月7日、大阪市中央区

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