福島第一原発事故で避難指示が出され、ほぼ全住民が避難した福島県双葉郡の8町村では、これまで1514人の震災関連死が認定されている。ほとんどは「原発事故さえなければ」救えた命だったはずだ。国は20年代に帰還困難区域で、希望する住民全員が帰還できるよう基本方針を決定しているが、故郷を追われた人々の犠牲は後を絶たない。この11年間で、「復興」が進んだことは間違いないが、救われない被災者が数多くいる。今後、汚染水の海洋放出が実施されれば、新たな被害が拡大することは明白だ。(新聞うずみ火編集委員 高橋宏)
チェルノブイリ、フクシマ、そして今回のウクライナ侵攻ではっきりしたことが二つある。今の為政者たちの多くは、人の命を犠牲にしなければ国家を運営できないということ。そして、核と人類は絶対に共存できないということだ。今年の3・11で、私たちは犠牲者と被災者に思いを寄せ、原発事故とは何だったのかを再確認する必要がある。そして、この間に国は私たちに何をしてきたのかを振り返り、国家とは何なのか、どうあるべきなのかを真剣に考えたい。
ウクライナ侵攻を受けて、安倍元首相や日本維新の会が米国との「核共有」の議論を求めた。プーチン大統領の核兵器使用示唆と同等の妄言だと気づかない人々が少なからずいる。米軍基地のみならず、核兵器まで配備されれば、それこそ攻撃の口実となることは明らかだ。
参考記事:ロシアのウクライナ侵攻 戦場となった原発(中)高まる原発事故のリスク
平和憲法の原点に立ち返り、これまでに得た教訓を活かして人の命を何よりも優先する社会を目指すか、人の命を犠牲にしてでも国家を守るという道を突き進むのか。まさに私たちは未来への選択を迫られている。ウクライナの惨状は、今のままの日本の将来を暗示している。決してひとごとではすまされないのだ。