京都で大阪空襲供養 「慰霊碑は母の墓代わり」
- 2020/9/24
- 空襲
京都市山科区の笠原寺(りゅうげんじ)に大阪空襲で亡くなった人を弔う慰霊碑がある。「大阪大空襲の体験を語る会」が1980年に建立したが、高齢化でお参りする会員もいなくなり、語る会は3月末に解散した。コロナ禍の戦後75年、寂れつつある「慰霊の場」を一人の遺族が訪れた。
「慰霊碑の前で、私一人のためにお経をあげていただきました。ありがたい一日でした。母もきっと安らかに眠ってくれていると思います」
メッセージを送ってくれたのは、大津市の片山美津子さん(79)。太平洋戦争末期の1945年6月1日の第2次大阪大空襲で母を亡くし、その1カ月前には父も沖縄戦で戦死していた。
片山さんは当時4歳。大正区で母親と2歳の妹「あきこ」さんと3人で暮らしていた。
その日、来襲したB29爆撃機は458機。8回を数える大阪大空襲の中で最も多かった。大阪市港区や此花区、大正区など、市内北西部が集中攻撃を受けた。
朝、母親は美容室へ行くと言って出かけたまま戻ってこなかった。
「祖母に連れられ、壊れた防空壕に横たわる母の遺体と対面しました。祖母が絞り出すような声で『よう見ときや。これがお母ちゃんやで』と言った言葉が今でも耳に残っています。母は24歳でした」
片山さんは妹と2人、京都の父方の祖母に引き取られたが、「日暮れになると、寂しくて悲しくて泣いてばかりいたのを覚えています」
終戦後、片山さんと妹はそれぞれ別々の家に養女に出された。片山さんは「おばあちゃんの家に帰る」と言って泣くので祖母の家に戻されたが、妹は帰ってこなかった。
片山さんが小学校の4、5年の時、見知らぬ中年男性から「妹に会いたくないか」と尋ねられたことがあった。誘拐されるのではないかと、とっさに「会いたくない」と言って逃げたという。
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