火薬作業で肺病む
4月、4年生になった久保さんは戦時特別措置で繰り上げ卒業となった。両親は徳島の実家への疎開を望んだが、軍国少女だった久保さんは大阪府枚方市にあった日本有数の火薬製造所である陸軍造兵廠香里製造所での勤労動員を選ぶ。
当時の枚方市は「兵器の街」だった。明治時代に陸軍の禁野火薬庫が置かれた。淀川流域の丘陵地で人家が少ないというのが理由だった。昭和に入ると、火薬庫に隣接する形で枚方製造所や香里製造所が置かれ、砲弾や爆弾製造の一大拠点となった。最盛期には、陸軍で使用する火薬の3分の1を生産していたという。
動員された学徒たちは全寮制で12時間労働の昼夜2交代で、火薬を弾薬に詰める作業に追われた。軍手とマスク、地下足袋などを支給されたが、久保さんは粉塵のように舞う火薬を吸い込んで肺を病み、皮膚を傷めた。爪もだいだい色に変色したという。
「風邪薬を飲んでもジンマシンが出るし、化粧も一切できない。爆音で右耳が聞こえなくなり、においもわからないのよ」
6月1日の第2次大阪大空襲では458機ものB29が白昼の大阪を襲い、久保さんの自宅も丸焼けになった。
「空襲のあとで家に帰ると、駅を降りると一面焼け野原でした。もうびっくりしてね、両親は大丈夫やろかと不安でした。家は丸焼けでしたが、防空壕の中から『おーい、ここや』という父親の姿を見た時はうれしかったわ」
勝者敗者も悲しみ
8月15日の敗戦は香里製造所で迎えた。翌日、動員解除が閣議決定された。久保さんは家族のもとへ帰る途中、京橋駅に降り立った。
その前日、大阪は最後の大空襲に見舞われていた。米軍の攻撃目標は、現在の大阪城公園にあった「東洋一の軍需工場」大阪陸軍造兵廠。近くの京橋駅も1トン爆弾の直撃を受け、多くの乗客や駅員が犠牲となった。
「空襲で亡くなった人の無念を誰が伝えるのが、生き残った者の役割ではないか」と、これまで活動してきたが、昨年8月に重い貧血で入院し、会の解散を考えるようになったという。
「活動を続けるうちに、私が作った爆弾で誰かが死んだり、傷ついたりしたのではないかと考えるようになった」という久保さんはこう言い添える。
「戦争は勝っても負けても、どちらの国にも悲しい思いをする人をつくる。そのことを若い人たちに知ってほしい。体が許す限り、語り部の活動は続けていきます」
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