和歌山空襲74年 児童ら語り継ぐ誓い

一夜にして1101人が犠牲になった和歌山大空襲から74年目を迎えた7月9日、和歌山市の汀(みぎわ)公園で戦災遺族会による追悼法要が営まれた。激しい雨が降りそそぐなか、参列した遺族ら120人が戦没者を悼み、平和への思いを新たにした。(矢野宏)

太平洋戦争末期の1945年、和歌山は1月から7月末まで計10回の空襲に見舞われ、約1400人が亡くなった。なかでも被害が大きかったのが7月9日だった。
来襲したB29爆撃機は100機を超え、9日深夜から翌未明にかけて焼夷弾が次々に投下され、市街地の7割が焼け野原になった。国宝だった和歌山城も灰燼に帰している。
焼夷弾は、木造建築が多かった日本の家屋を燃やし尽くす目的で開発された。直径約8㌢、長さ約50㌢の鉄の筒に燃える薬剤「ナパーム剤」が入っていた。投下された親爆弾が空中で開くと38発の子爆弾がバラバラと落下し、屋根を突き破って刺さり、その5秒後に炎を振りまいた。
現在、汀公園になっている旧県庁跡は避難所となっていたが、火災旋風に巻き込まれて748人が犠牲になった。9日に亡くなった「ジャニーズ」社長のジャニー喜多川さんは当時13歳。和歌山に疎開中に大空襲に遭い、生前にこんな言葉を残している。
「焼夷弾が雨のように降る中を逃げ回り、何とか命は助かったが、多くの死体を目の当たりにした。空襲を避けるために橋の下に隠れた」
追悼法要では、参列者全員で犠牲者の冥福を祈って黙祷した後、戦災遺族会の田中誠三理事長(83)が「今も目を閉じれば、地獄のような光景がよみがえります。戦火の中を必死で逃げ惑う人々、肉親を失って堪えがたい悲しみに暮れる方々の恐怖と悲痛な惨状は私の記憶から消えることはありません」とあいさつ。
空襲について学んだ和歌山大付属小6年生の代表4人が「石や人が風で飛ばされ、辺りは焼け野原になっていたそうです。遺体がいたる所にあり、窒息死した人、骨ばかりになった人もいました。そんな体験談を聞いて言葉が出ませんでした。想像もつかなかったからです」「人を変えてしまう戦争を決して忘れてはいけないと思います。戦争によって多くの人の生活や命が奪われたことをとても悲しく思います。そんな悲惨な出来事を防ぐために、私たちはこの日のことを忘れず、大人になった時には子どもに伝え、命を大切にする平和な社会にしていきたいと思います」と誓いの言葉を述べた。

続いて、市内3校の小中学生らが千羽鶴をささげたあと、参列者が焼香し、公園の戦災死者供養塔に向けて手を合わせた。
田中理事長は当時国民学校3年で、6月22日の空襲で母と2人の姉を亡くし、大空襲の日も燃えさかる家々の間を防火用水の水をかぶりながら逃げ惑ったという。「紀ノ川の土手に穴を掘って避難していました。お城の方へ逃げていたら助からなかったかもしれません。炎の中で若い母親がはぐれた子どもの名前を必死で呼ぶ声が未だに耳に残っています」と振り返り、こう言い添えた。
「悲惨な戦争の教訓を後世に語り継いでいくことが私たちの使命です」

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