戦争の断片「10・10空襲」 消えた故郷 米軍の港に

「漁港として賑わった那覇港は大型船が何艘も傾き、数十隻の漁船が無残な姿をさらしていたのが今も忘れられません」

避難生活は2週間ほどで切り上げ、一家は那覇へ戻った。焼け跡に小屋を建てて生活していたが、45年3月に入ると米軍の艦砲射撃が始まり、一家は再びやんばるへ向かう。久志村の避難小屋に身を寄せた生活は困窮を極めた。

「蛇やカエル、昆虫など、手当たりしだい食べた。桑の葉の若い芽や野草、ヨモギなどを摘み、浜からくんで来た海水で煮て食べたが、飢えをしのぐのが精いっぱいでした」

樽さんは渡嘉敷さんを連れて山を降り、集落の床下に忍び込んだ。米兵が集落を襲うと、住民たちは山へ逃げる。攻撃が終わって米兵が引き上げたあとを狙って誰もいない家に忍び込み、食料を盗んで持ち帰った。

「人の物を取らないと生きていけなかった。おじーは僕らを生かそうと必死だった」

一家は名護市瀬嵩で米軍に捕まり、収容された。避難生活の疲労が重なったのか、樽さんが亡くなった。「垣花へ帰ったら一緒に暮らそう」。そう言っていた樽さんは久志の山中に埋葬された。

「おじーには何度も命を守ってもらいました。空襲の前、『対馬丸』で九州へ学童疎開することになっていたのを、おじーが『死ぬなら一家一緒で』と反対したのです」

戦後、垣花の三つの町は消えた。国道58号から金網の向こうには米軍の那覇軍港が広がっている。空襲で、沖縄戦で故郷を追われた渡嘉敷さんら垣花の人々。戦後74年たっても足を踏み入れることすらできない。(矢野宏)

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