戦争の断片「10・10空襲」 消えた故郷 米軍の港に

「空襲だ、空襲」

近所の大人たちが叫んでいる。着のみ着のまま飛び出すと、「ドドーン」という爆撃の音が轟き、那覇港で黒煙と炎が上がった。

11944年10月10日の朝、沖縄本島の東、約280キロ沖に米軍艦隊245隻が集結。午前6時40分から午後5時にわたり、艦上戦闘機など延べ1396機が沖縄を中心に奄美大島以南の南西諸島の主な島々に波状攻撃を加えた。世に言う「10・10空襲」である。米軍はフィリピン奪還のため、日本本土からの中継地である南西諸島の航空基地をたたいておく必要があった。攻撃は飛行場や港湾などの軍事施設にとどまらず、住宅や学校、病院にも及んだ。

最も大きな被害を出したのが那覇市。沖縄守備軍の第32軍司令部が置かれていたこともあり、焼夷弾が次々に投下され、市街地の9割が焼失した。死者255人、負傷者358人を数えるなど、空襲被害の8割を占めた。


「垣花親和会」会長の渡嘉敷邦彦さん(85)=浦添市=は当時10歳。垣花(かきのはな)国民学校4年生だった。垣花は那覇港に隣接する三つの町――西の住吉町、中の垣花町、東の山下町――で構成されていた。渡嘉敷さんが両親ときょうだい4人と暮らしていたのは住吉町。父は港湾荷役などを担う「商運組」の下で作業を引き受ける「那覇港湾作業隊」の責任者を務めていたが、召集され不在だった。

渡嘉敷さんは庭の防空壕へ逃げ込んだが、家屋は全焼。隣に住んでいた祖父の樽さんに連れられ、本島北部の「やんばる」へ避難する。
丘から振り返ると、那覇の街は燃えていた。

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