京橋空襲74年 「あと1日」今年も追悼

敗戦前日の1945年8月14日に大阪は最後の大空襲に見舞われ、数百人の命が奪われた。1㌧爆弾の直撃を受けた大阪市城東区のJR京橋駅では今年も慰霊祭が営まれ、遺族ら200人が犠牲者を追悼した。         (矢野宏)

「あの日もかんかん照りのいい天気で、真っ青な空が広がっていました」
そう振り返る「大阪戦災傷害者・遺族の会」代表の伊賀孝子さん(87)は3月13日の第1次大空襲で焼夷弾の炎に包まれて全身大やけどを負い、自宅で治療中だった。
「えらいこっちゃ、空襲や」という近所の人の声で外を見ると、北側に一筋の煙が立ち上っていた。煙は色濃くなり、広がっていったという。
「あの煙の下で私のように逃げ惑う人たちがいると思うと、悔しくて。あと1日早く戦争が終わっていれば……」
74年前、145機のB29爆撃機が来襲。標的となったのは現在の大阪城公園内にあった東洋一の軍需工場「大阪陸軍造兵廠」。集中爆撃した際、近くの京橋駅にも1㌧爆弾を落とし、うち1発がホームを直撃した。駅舎は吹き飛び、死者は身元がわかっているだけで210人、身元不明者を含めると500人を超えると言われている。

照屋盛喜さん(86)は駅の北東にあった船舶部品工場に学徒動員され、空襲に遭った。当時12歳。空襲警報が鳴り、工場内の防空壕へ避難した。
「鉄板で作った頑丈な防空壕が『ドーン』と爆弾が落ちるたび、すさまじい振動で隙間があき、光が差し込んでくる。どれだけ怖かったか」
警報が解除され、駅に駆けつけると、「線路が8本、2㍍ほどの高さで空に向かって真っすぐ立っていた」
駅舎は無残に吹き飛び、柱や石などが避難してきた人を押しつぶし、壁のあちこちに肉片がへばりついていた。生き埋めになった人たちも大勢おり、いたるところから助けを求める声が飛び交っていた。


照屋さんは遺体の回収に従事する。
「駅近くの空き地にトタンを並べ、ガレキなどに埋もれた中から掘り出した手や足などを置いていく。人という感覚はない、遺体の部品やった」
遺体は腐乱し臭いを放つため、掘った穴に運ばれて火葬されていった。
「あの日の生き残りですわ。でも、当日の記憶が飛んでしまって覚えていませんねん」


慰霊祭に初めて参列したという植嶋平一郎さん(77)は当時2歳。父は出征し、母と緑橋の自宅で暮らしていた。空襲警報が鳴り、母は植嶋さんを連れ、北へ1㌔ほどの京橋駅を目指した。はぐれないようにと、植嶋さんの腰にひもがゆわえられていたという。
「母は『防空壕に入れほしい』と頼んだようですが、入れてもらえなかった。気がつけば、ライオン像がある難波橋の下でした」
京橋駅から西へ2㌔ほど。その間の記憶は凄惨だ。
「避難するため、たくさんの遺体の上をズルズルと引きずられていったのです」
そう言って、植嶋さんは涙ぐんだ。
慰霊祭に先立ち、京橋駅前では空襲被災者と支援者でつくる「大阪空襲訴訟を伝える会」が政府に対し、謝罪と補償を求めて声を上げた。
「民間の空襲被災者には補償がありません。先の大戦をきちんと片づけないと悲劇は繰り返されます。納得のいく救済法をつくるため、力を貸してください」

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