今の大阪城公園、さらには大阪ビジネスパークやUR森之宮団地も含む一帯には、東洋一の軍需工場「大阪砲兵工廠」があり、巨大な兵器工場が建ち並び、学徒動員や徴用工を含め6万人以上が働いていた。終戦前日の1945(昭和20)年8月14日、大阪最後の大空襲で壊滅的被害を受けたが、その痕跡は今も残っている。京都ミニツアー「まいまい京都」が企画した「大阪城に残る軍事遺産!研究者と東洋一の巨大兵器工場跡へ」ツアーに同行し、大阪砲兵工廠研究の第一人者で武庫川女子大名誉教授の三宅宏司さん(77)に案内してもらった。(新聞うずみ火 矢野宏)
春本番の陽気となった4月2日、大阪城公園の桜は満開。週末とあって大勢の花見客でにぎわっていた。
大阪城を中心に広がる緑豊かな公園は大阪砲兵工廠の跡地に盛り土して整備されている。「今でも公園の下を掘れば、不発弾が出てくるはずですよ」。ドキッとする話を聞きながら三宅さんと桜並木を歩く。
かつて大阪は「軍都」でもあった。その中心は大阪城だ。東京・仙台・熊本とともに四鎮台の一つ大阪鎮台(後の第四師団司令部)が置かれ、1870年には大阪砲兵工廠の前身である「造兵司」が設置された。建言したのは大村益次郎。日本陸軍の創始者である。
「大村は大阪城の軍事拠点としての優位性に着目しており、軍の中枢や工廠などを集中しようと考えていました。九州で不穏な動きを見せる不平士族だけでなく、朝鮮半島や中国への進出などを想定していたのかもしれません」
明治政府は「国家の独立は兵器の国産から」の理念のもとに大阪城の北東部に当たる三の丸に大砲工場を開設。以来、陸軍直営の兵器工場として大砲や砲弾など大型兵器の製造にあたり、西南戦争、日清・日露戦争を経て規模を広げていく。「外堀まで埋め立てて工場をつくっていましたが、昭和になると、今の環状線の外にも広がり、大阪府枚方市、京都府宇治市、兵庫県姫路市などにも分工場が設置されるようになりました」
同時に、大阪砲兵工廠の人材や技術が民間に波及し、大阪の工業化を支え発展させた。「特に金編(かねへん)の字がつく鉄鋼や金属などの『金編産業』が発展し、後の住友金属や神戸製鋼、クボタなどが生まれる。東大阪に町工場が集まっているのも元は大阪砲兵工廠が形作ったと言っていい」と三宅さんは指摘する。
1940(昭和15)年には「大阪陸軍造兵廠」と改称。大阪城の北東から東にかけて敷地面積約130万平方メートルに200近い巨大な工場が建ち並び、最盛期で工員数約6万8000人という東洋一の軍需工場となった。
太平洋戦争末期、大阪は50回を超える空襲に見舞われ、焼け野原となった。大阪砲兵工廠も45年6月7日、26日、7月24日の大規模空襲の標的になったが、被害は軽微だった。
ところが、終戦前日の8月14日正午過ぎにB29爆撃機145機が来襲、1トン爆弾など650発あまりを次々に投下した。設備の9割が破壊され、少なくとも382人が犠牲になった。
参考記事:大阪大空襲から77年 民族名判明した判明した朝鮮人犠牲者166人を追悼
近隣にも被害は及び、北側に位置する国鉄京橋駅(現JR京橋駅)に1トン爆弾4発が落ち、うち1発が避難する乗客でごった返す片町線ホームを直撃し、駅舎は吹き飛び、石垣や柱、壁などが乗客を押しつぶした。身元が判明した死者は210人、実際の犠牲者は500~600人とも言われている。
京橋駅南口近くには供養碑が建立され、毎年8月14日に慰霊祭が営まれている。