角鹿(つのか)泰司さん(81)は歯舞群島の勇留(ゆり)島の出身。
「ソ連兵が来て姉たちはドックに隠れた。脱出しようとした父の船は丸太からずり落ちて動けず、知り合いの船で脱出しました」
1980年代には日ソ漁業交渉にも参加した。
「私は『日本は糸に針をつけて魚を獲るが、ソ連は底引き網でごそっとやるから資源が枯渇する』と言うと、ソ連側の代表に『針には強い魚が先に食いつく。それらを日本が取ってしまうから資源が枯渇する』と反論された」と振り返る。
「ラブロフ外相が『戦争で勝ったから我々の土地』と言った。その考えでウクライナを攻めているのか。ロシアの本音ならどうしようもない」と語る角鹿さんは「年をとっても、なかなか元島民の平均年齢に追いつかない」と笑う。
元島民一世の平均年齢は86・7歳で、5500人を切った。
64年から戦後、ソ連側が「人道的配慮」と元島民に墓参だけを認め、故郷の島での墓参りだけ許可された。
色丹島から引き上げ、根室市で水産加工会社を経営する得能宏さん(88)は「墓参は最初、色丹島と歯舞群島だけでしたが、徐々に国後島や択捉にも行けるようになった」。
しかし、ビザを要求されたため、76年から10年間中断、再開は86年の夏だった。
その頃、ソ連にはゴルバチョフ大統領が登場、91年暮れにソ連が崩壊し、日露の雪解けは進み92年にビザなし交流が始まる。「墓参ではロシア人との付き合いは全くなかったが、ビザなし交流で付き合いも始まりました」と話す得能さんには、色丹島に「ロシア人の息子」がいる。イーゴリ・トマソンさん。奥さんはオクサナさんだ。
2017年の自由訪問で2人から「この島で生まれた日本人と友人になりたい」と言われた得能さん。
「私の次男とイーゴリの年齢が近く、親子になろうとなったんです」
ウクライナ侵攻後、サハリンのテレビ局が色丹島を訪れた際、通訳がイーゴリさんに会い連絡が入る。
「テレビ局を通じて会話できたが戦争の話は避け、遠くないうちにきっと会えるからと話しました」(「下」に続く)