空襲記録する会全国大会 体験が示し語る恐怖

向山さんは当時、国民学校5年生。父親は馬車や荷車などの車輪を作る工場を経営していた。長兄は出征し、家族6人で暮らしている時に空襲に見舞われた。

「深夜に突然の空襲警報が鳴り、外へ飛び出すとすでにB29の爆音が頭上に響いていました。いつもは警戒警報が先になるのに、これは非常事態だと思いました」

向山さんは夢中で長靴を履いて、家の裏にその日完成したばかりの防空壕に母と祖父、弟の4人で避難した。父と兄は「家を守る」と留まった。
遠くで聞こえていた焼夷弾がさく裂する音が迫ってきた。恐怖の中で、向山さんは教師から聞いた言葉を思い出す。「防空壕の中にいると蒸し焼きになる」――。「ここにいたら死ぬ。外に出よう」。そう言って、向山さんは防空壕を飛び出すと、母や弟、祖父も後に続いた。

 

裏の川にかかっていた細い橋を渡り、田植え直後の田んぼの中に避難した。胸まで泥水につかりながら顔を伏せ、あぜ道に必死にしがみついていた。母はお経を唱えていたのを覚えているという。
「頭上を飛行するB29の爆音、焼夷弾がさく裂する音。恐怖の絶頂で悪夢の2時間が過ぎました。豪雨が降り、強風が吹き荒れ、夜が明けました。戻った家は焼け落ち、近所の友だちが焼夷弾の直撃を受けて亡くなったことを聞かされました」
復興のために苦労した父親は床に就くようになり、翌春、鬼籍に入る。「父親の死で、私たちの将来が覆されました。空襲は人生の原点として忘れられないもの」と結んだ。
このあと、岐阜や青森などで空襲資料の発掘や研究に取り組んでいる団体から報告があり、翌1日は市内の戦跡を巡るフィールドワークが行われた。来年の開催は東京。

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