フクシマ後の原子力 核燃サイクルなおも執着

高速増殖炉による利用のめどが立たなくなってからは、ウランとプルトニウムを混ぜたMOX燃料を軽水炉で使うプルサーマルで消費するとした。だが、プルサーマル発電は安全性に問題(日本で建設された軽水炉はMOX燃料の使用を想定していない)がある上、増え続けるプルトニウムを確実に消費していく見通しも立っていない。もはや、核燃料サイクル政策が破綻した今、再処理工場を稼働することは「百害あって一利なし」なのだ。

ではなぜ、国は核燃料サイクル政策の破綻を認めず、福島第一原発事故後も原発を「長期的なエネルギー需給構造の安定性に寄与する重要なベースロード電源」(18年7月に閣議決定された第5次エネルギー基本計画)と位置づけるのであろうか。その理由は次回以降、詳しく説明していきたい。

さて、新型コロナウイルスを巡る様々な動きは、私たちの暮らす社会がどのようなものなのかを如実に教えてくれている。私たちの代表者の集まりである国や政府が、どれだけ私たち市民とかけ離れた存在であるか、はっきりしたのではないか。そうした国や政府が、再処理工場の稼働を含めた原子力政策を決定していることに、私たちは危機感を持つべきである。

同時に、社会自体が不穏な空気に包まれつつあることに気づかねばなるまい。ほとんど用を足さないアベノマスクの配布は、圧倒的な軍事力に竹槍で備えさせた戦時の日本を想起させる。十分な補償もしない中での自粛の要請は、まさに「欲しがりません、勝つまでは」という戦時のスローガンを想起させる。各地で問題化した「自粛警察」は、関東大震災で多くの朝鮮の人々の命を奪うことに手を貸した「自警団」を想起させる。かつて、そのような空気の中で軍部が暴走し、それを止めるような声が強烈な同調圧力によって封じ込められ、取り返しのつかない悲劇を招いたことを私たちは忘れてはならない。

私たちは日本国憲法に示された民主主義社会の実現に向けて歩んできたのだろうか。あるいはそれが見せかけで実は戦前の社会そのままの歩みを続けてきたに過ぎないのだろうか。今、それが問われているのである。戦前回帰への危惧は、政権だけの問題ではない。(高橋宏)

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