天皇代替わりと祭祀 現人神とせぬために

行く先々で目にする「奉祝 令和」の垂れ幕。新天皇即位後の世論調査では8割もの人が「親しみを感じる」と回答するなど、世の中が祝賀ムードに染まったかのようだ。秋には即位の礼と大嘗祭があり、すべて公費で賄われる。政府は「極めて重要な伝統的皇位継承儀式で公的性格がある」とするが、憲法の政教分離の原則と相いれないのではないか。日本近代史に詳しい立命館大名誉教授の岩井忠熊さん(96)は学徒出陣した元特攻隊員。神話復活を憂え、「国民にとって重大問題が隠れてしまわないように」と呼びかける。  (矢野宏、栗原佳子)

琵琶湖畔にある岩井さんの住まいを訪ねたのは5月中旬。1日に行われた三種の神器を引き継ぐ「剣璽等承継の儀」について、物静かな口調で振り返った。
「皇族の出席者は男性皇族だけで、皇后を含め女性皇族は排除されましたね。しかも、三種の神器は神話に由来することは明らかで、それを代々受け継いでいくことは天皇家の私的行為であり、国事行為として行うことはいかがなものか」
秋の即位の礼、大嘗祭に触れ、「新聞やテレビなどは大々的に取り上げ、華麗な場面は大衆の目を引きつけることでしょう。しかし、その間にも内外の情勢は動いている。昭和天皇の即位の礼が行われた1928(昭和3)年には、関東軍による『張作霖爆殺事件』、日本共産党員が一斉検挙された『三・一五事件』などがありましたが、祝賀ムード一色で国民の目から隠されてしまった。国民にとっての重大問題が代替わりの儀式で隠れてしまわぬようにしなければいけません」と訴えた。

即位に関する中心行事で、10月22日に皇居・宮殿で行われる「即位礼正殿の儀」は、新天皇が日本国の内外に即位を宣明する儀式。1990年の時は、天皇が束帯を着て高御座(たかみくら)と呼ばれる玉座から国内外の賓客に即位を宣言し、その下から首相が祝いの言葉を述べて万歳三唱が行われた。
このほか、皇居から赤坂御所までの4・7㌔をオープンカーに乗り、30分かけて走行する「祝賀御列(おんれつ)の儀」や国内外の賓客に即位を披露する祝宴「饗宴の儀」も含め、五つの行事は憲法上の国事行為に指定されている。
11月14日から15日にかけて行われる大嘗祭は皇位継承に伴う祭祀で、新天皇が即位した年の新穀を神々に供え、国の安寧や五穀豊穣を感謝し祈る、即位後初の新嘗祭。神道形式で行われるため、政府も国事行為と認めるわけにもいかなかったが、「憲法が定める皇位継承儀式の公的性格を重視して」費用は公費から支出する。秋篠宮が昨年11月、「宗教色の強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と疑問を呈したが、大きな議論もないまま「公的な皇室行事」と位置付けられた。

新天皇即位に伴う費用の総額は、平成の代替わりの時と比べて3割増の166億円で、大嘗祭だけでも前回より4億円増の27億円が国費から支出される。これに対して、憲法第20条の「信教の自由の保障・政教分離」に反するとして、日本キリスト教会などが首相宛てに抗議声明を出している。
大嘗祭について、岩井さんは「天皇が神と一体になり、そのことによって民を支配していく権威を身につける儀式として古来より位置づけられてきた」と説明し、こう語る。「大規模になったのは大正天皇が即位したときで、天皇の宗教的権威を中心に国家統治を強めるのが狙いでした。いわば、天皇家の私祭なのに『代替わりの一連の儀式につながる』からと公費が使われる。憲法の政教分離の原則とは相いれないでしょう」


大嘗祭を含め、今回は1989年から90年にかけて行われた「平成の代替わり」の儀式を踏襲するとしている。だが、その儀式は「戦前の形式を踏襲したもの」と指摘する。
「戦前、天皇主権と国家神道に基づいて践祚・改元・即位礼・大嘗祭などの儀式のあり方を定めた『登極令(とうきょくれい)』という皇室令がありました。明治天皇が亡くなる3年前の1909年、代替わりを想定して制定され、今の憲法が施行される前日に廃止されたのですが、平成の代替わりで『復活』したと言っていい。即位の礼と大嘗祭が秋に行われるのは、登極令に『即位の礼、大嘗祭は秋冬の間に行う』と規定されているからだと考えます。天皇の神格化と国家神道を徹底する立場からつくられたもので、実際に行われた儀式は、国民主権と政教分離という憲法の原則に反するもの。しかも、登極令は明治時代にできたのだから即位の礼などは『皇室の伝統』とも言えません」
政府の見解は「平成のお代替わりに伴い行われた式典は、現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであることから、今回も、基本的な考え方や内容を踏襲されるべきものである」というものだ。

岩井さんは1922(大正11)年8月、10人きょうだいの末っ子として熊本市で生まれた。父は陸軍少将で退役し、旧満州(現中国東北部)大連へ移住する。日露戦争に出征していたころからなじみがある土地で、「日本本土よりも先進的な暮らしができる」のが理由だった。岩井さんが3歳の時だった。
31年に満州事変が勃発、満州国が建国されるなど、日本の植民地政策を目の当たりにして少年時代を過ごした。  16歳の時、旧制姫路高校に進学するため帰国。3年後に太平洋戦争が始まった。戦局が窮迫した43年、京都大に進学してまもなく、徴兵猶予停止により学徒出陣で海軍へ配属される。横須賀第二海兵団(後の武山海兵団)、海軍航海学校と進み、44年10月に特別攻撃隊(特攻隊)を志願。卒業とともに海軍少尉に任官し、「第39震洋隊」の艇隊長に任命される。震洋隊とは、ベニヤ板の高速モーターボートに250㌔爆弾を積み、敵の輸送艦に体当たりして撃沈するための部隊である。
出撃準備に入った頃、海軍水雷学校長の大森仙太郎中将が岩井さんら若い士官を集め、深々と頭を下げてこう言ったという。「われわれがふがいなくて、戦争はどうにもならない戦局に陥った。ここで戦局を挽回するためには諸君らに死んでもらうほかなくなった。はなはだ申し訳ないが、諸君に死んでほしい」
「水雷の神様」と言われた人から頭を下げられ、「いやとは言えない。男としてこれに従わないでおられるかというのが当時の心情でした」
45年3月、岩井さんら震洋隊員は輸送船に分乗し、護衛艦に守られて佐世保港を出港。石垣島へ向かう洋上、米潜水艦の魚雷攻撃を受けた。岩井さんの輸送船は2発の魚雷を受け、わずか25秒で船尾を垂直にして沈没する。岩井さんは海に飛び込み、3時間漂流したのち、救助されて一命をとりとめる。隊員187人のうち生き残ったのは45人だった。
その後、魚雷艇訓練所で教官をつとめ、6月には天草牛深の第106震洋隊の艇隊長として赴任、そこで敗戦を迎える。その夜、「灯火管制が解かれ、各家に明々とした灯りが戻ったのを見て戦争が終わったことを実感しました」と振り返る。

一枚の白黒写真を見せてもらった。軍服姿の青年2人が写っている。立っているのが岩井さん、座っている青年は……「2つ上の兄・忠正です」
20年生まれで現在98歳。慶応大2年の時に徴兵猶予が停止になり海軍へ。43年10月21日、神宮外苑で行われた学徒出陣壮行会にも参加している。
忠正さんも特攻隊を志願し、人間魚雷「回天」の要員になって訓練を受けたが、肺結核の疑いで外された。その後、機雷の付いた棒で敵艦の船底を突いて自爆する潜水特攻「伏竜」の部隊に回された。訓練を受けたが、実戦に出る前に終戦を迎えている。
特攻を志願した兄弟だったが、44年11月、奇しくも長崎県川棚町の魚雷訓練所で再会する。特攻を志願した理由は同じだった。「どうせ死ぬなら潔く一発で」。2人は近くの写真館で遺影を撮り、大連の両親へ送った。
一度は生きることを諦め、国のために命を捧げると決意した兄弟。「終戦を迎えられたのはただのめぐり合わせ」と岩井さんは振り返る。
「象徴天皇は、戦前の国家神道に支えられた絶対君主制を否定する意味が込められているのに、再び現人神に祭り上げようという動きがあるのではないでしょうか。代替わりの陰に隠されたものを見ないと、またものが言えなくなる時代がやってこないとも限りません」

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